昭和46年09月26日 朝の御理解



 御神訓 一、「今より何事にも方位は忌まず わが教えの昔に帰れよ。」

 信心をさせて頂くようになったらと言う事でしょうね。金光様のご信心を頂くようになったら、今より方位は忌まず、教えの昔に帰れよと。理屈を言うなと。昔に帰れと、大自然の働きに即応した生活に帰れと言う様な事だと思うですね。大自然の働きに即応した生き方。「わが教えの昔に帰れ」と。金光様のご信心を頂いておりましても、やはり何と言うですか、不自然なね生き方。もう実に不自然と思われる事を平気でやったり、思うたりしておる人がたくさんあります。
 第一「方位は忌まず」と仰っておられるですね。いわゆる人間がつくったひとつの何と申しますかね。日柄方位の事をここで言っておられるなと思いますね。日柄方位は、結婚とか、いわゆる葬祭、それからまあ何か思い立つという時には、良い日柄を選ぶと言った様な生き方なんです。あちらの方角はええの、こちらの方角は悪いのと言う様な事なんです。そう言う様な事は、考えれば考えるほど、実は不自然なんですよね。
 だからその、不自然な事の生活から、自然なもう本当に人間らしい生き方。それは大自然の働きに即応していくと言う事。実に何と言うかね、坦々とした生き方があるのだと。暑ければ着物を減したらよい。寒ければ着物を一枚でも二枚でも多く着たらよい。自然に即応すると言う事はね、あのいつもかつも同じという意味じゃないですよね。それが自然なんです。春であり秋であるという時には、丁度いい具合に着物をきたらいい。例えばその、暑い寒いの事にいたっても、そういう生き方なんです。
 実にその自然である。寒いから着物を着る。暑いから着物を一枚はぐね。それが自然の生き方なんです。現在お金がない。ないからない生き方をしなきゃならんのにね。それを言うならばはり回ってね、贅沢な生活をすると言う様な生き方は、もう実に不自然なんです。百円しか無いなら百円がたの生活ね。千円がたのお金があるなら、千円に相応しい生活。それを百円しかない者が、千円の生活をしようとするところに、九百円だけはね、自然に対するその働きのね、言わば違反するわけであるね。
 そういう言わば、自然な生き方ね。お腹が痛む腹がせくと。いう時にはやはりお粥さんと梅干が一番良いという生き方なんです。「腹のせくけん今日はひとつ、すき焼きなどでも食べるか」ちゅう様な事じゃいかんと言う事。腹の痛い時には、腹の痛い時の生き方があるんだと。そこで今私達はね。例えばほんとに、まあ言うなら腹でも痛んでおる時だろうか、と思われるように苦しい時には、もうすぐお粥さんの生活、梅干の生活に切り替えていかなにゃいけません。
 それを切り替えて行く事を「どうしたなら、こげなおかゆば食べんならんじゃろうか」といったような不平不足を言うところに、自然に自然に反する。「教えの昔に帰れ」と。素晴らしいことだと思うですね。金光様のご信心のあるがままになるがままに、という生き方なんですね。そのあるがままになるがままにというのは、「もうどげんなったっちゃよか」と言った様なもんじゃない。「あるがままになるがままに」暑ければ暑い、寒ければ寒いでね、そこでまあ辛抱のできれる生き方ね。
 暑ければ暑いで涼をとり、寒ければ寒いで暖を取って行くと言う様なね、生き方なんです。そういう中にですいよいよ分からせて頂くのは、いわゆる「今より何事にも方位は忌まず」と言う事は是からね、これからはひとつ素直にね、教えに従っていけ自然の働きに即応していけ、理屈を言うなという。だからこそ「何事も素直心の一つにて雲の上までも登る道」が開けてくるのである。自然はもうより良い生き方より良いおかげ、より良い幸福を与えて、与えねばやまんという働きだけしかあっていないのであるね。
 そんならばいつも丁度、暑もなければ寒もないようなふうにして下さったら良かとに、人間の困ったような事はなさらにゃ良か、と思うけれどもですね。そこんところに、私はね、苦しい事もありゃ悲しい事もある。けれどもその苦しい事も悲しい事もです。愉快な事も楽しい事も、それを神様の働きとし、お恵みとして頂いていくと言う事はです、素直な心にならなければ頂けませんし、また教祖は「この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん」と仰るのはね。
 そういう生き方が、身に付いて来る所におかげを受けて、何事も素直心で、全ての事を有り難い。「この方の道は有り難い有り難いで開けた道だから、有り難いでは苦労はさせん」と仰るほどしのおかげが受けてくる。私はね「わが教えの昔に帰る」と言う事は、そう言う事だと思う。いわゆる「神様と共に」と言う事を皆が申します。神様我と共にあるんだと。確かにそうなんですけれども、神様を遠くしてしまうような生き方になってはいないだろうか。
 「神様と共に」と言う事は、起きてくるその事態そのものと取り組むと言う事である。いうなら、「自然の働きと共に」と言う事である。だから神様を身近に身近に感じる事ができる。何事にも方位は忌まず、何事にも理屈を言わず。理屈というものは、自分で作るもの。日柄方位でもそうです、理屈から生まれたんだと思う。だから成程聞きよると理に合ってるように見える。ところがその、大自然の働きというか、摂理というか、又は妙利というか。それには違反をするしておる。
 そこを「ちっとでも楽をしよう、ちっとでも良いように」と言う様な考え方が、そこで編み出されて、編み出されてあるのが私は、日柄だとか方位であるそういうものだとこう思う。結婚をするなら、いよいよ幸せになる、いよいよ幸福になりたいからこそね。良い日柄に、の日を選んで、いわゆる黄道吉日として式を挙げる。折角普請をするのであるから、方位を見て方位というですかね、家相を見て家を建てる。
 全部幸福になりたいという思い方。いわゆる不自然な事をして、不自然な事をしてでも、言うなら幸せになろうとする人間の浅はかな知恵である。そこのところを教祖は喝破されたんですよね見抜かれた。そういう生き方からは幸せは生まれてこない事実を突き止められた。けれどもやっぱり、ご自身のご一家の上に、次々と難儀な事が起きてまいりましたら。やはりそうではなかろうかとも思われた。小さい家を四方に広げた事であるから、どこの方角にお粗末ご無礼があるやら分からん、とやはり思われた。
 けれども、その受け止め方が教祖の場合は素晴らしかったわけですよね。いわゆる金神友好、当時、今でもですけれども、「金神友好説」を信じられた。だから、言うなら実意の限りを尽くして、それをなさっておりながらもです、難儀な事が起こってくると「人間凡夫のことでございますから、どこにお粗末があるやらご無礼があるやら分かりません」として、平身低頭神に詫びておられます。
 言うならば、教祖様ご自身としてもです、通るところを通られたと言う事です。けれどもただ、真一筋、実意一筋をもって通るところを、通られる度んに、実意の限りを尽くされたという。私が今日皆さんに申しますように、実意の限りを尽くすと言う事は、いわゆる、「あるがままになるがままに」という生き方を、私どもの実意をもって、それを受け止めていくと言う事ね。言うならば、それなりの生活をすると言う事。百円の収入しかないなら百円の生活。
 五百円の、それしかないなら五百円がたの生き方をです、身に付けて行くということ。それが私は「実意」だと思う。ところがやはり、なら貧乏と言う事は苦しい事に違いはない。けれどもね、お粥さんを頂いておる、昨日は梅干を頂かして頂いておると言ううちに、自ずといわゆる健全な心、健全な肉体が約束される。そこからいわゆる固いご飯を頂かれる。どういう御馳走でも頂けれるような道が自ずと開けてくる。自ずと開けてくる道。そういう道がです。
 私は金光大神が教えられた真の道であり、そういう生き方に帰れよと仰る。「教えの昔に帰れよ」と。ですから「ぬれ手で粟のつかみ取りの気になるな」と教えておられます。こういう不自然な事はない。だからこそ我情を言わなければならん、我欲を言わなければならんのである。我情我欲が、不自然な生き方をつくってしまう。そういうところをです、例えば福岡の初代は、「馬鹿とあほうで道を開け」と仰ったのじゃなかろうかと、こう思うのです。
 そういうところを久留米の初代は、信心辛抱さえしておれば、と言う事になられたのじゃなかろうかとこう思う。そこにはやはり辛抱が要る。そこにはやはり終わりにはもう、馬鹿になっていく他にはないという道だけしかない。そこから自ずと開けてくる道。信心をさせて頂くなら、いわゆる「今より何事にも」と、今より何事にも信心にならなければならないと言う事。何十年信心しておってもね、その信心にはならん。
 ただ自分の言い分だけ。いわゆるその言い分とても、自分の我情であり、我欲であるを並べ立てるだけ。これではいつまで経っても、わが教えの昔に帰らして頂くと言う事が、この様にも素晴らしい生き方か、と言うことが分からん。第一我情我欲を言わんで済む生活ができん。自然は絶えず私どもに囁きかけるね。絶えず私どもの生き方に一つの指針を示してくれる。
 その生き方を自然が教えておっても、その生き方を身に付けようとしない。ただどうぞ、自分の思うようになる事だけがおかげのように思うて、自分の我情我欲のだけを神様に並べる事が信心だと、まあ金光様のご信心以前の信心とでも申しましょうか。まあそれが信心だというふうに思って来た。困った時の神頼みが信心だと思って来た。ところがそうではないことを、教祖ご自身が身を持って頂かれ示された道が「金光教」であり、金光大神の言われる、自ずと家繁盛子孫繁盛の道に繋がっていく道である。
 それはどこまでも自然に乗る、言うなら心を心として生き方。それを難しゅう言うと、いわゆる「天地日月の心になること肝要なり」と言う様な事にもなってくる。天地日月の心になること肝要。これがそのまま教えの昔に帰るということである。「天地日月の心」いわゆる大自然の心。その大自然の心に逆らわない、即応した生き方を教祖金光大神は教えられた。それを簡単に言うと「素直になれ」と言う事である。
 又は理屈を言わずに、「この方の道は喜びで開けたみちじゃから。」と言う様に、全てのことをここで言われておる「御事柄」として受けて行けと言う事である。そこに始めの間はです、今までの不自然な生き方から、自然な生き方になるのですから、却ってそれが不自然のようにも見える。それをんなら一般の人は「信心しよりゃ、馬鹿じゃなかじゃろうか。」と言う様な事にもなってくる。いわゆる「正直者が馬鹿を見みる。」と言った様なことも言える。
 けれども、果たして信心によっての正直者、大自然に即応した生き方での正直者。そこには、雲の上にまでも昇るほどしの道が開けてくると言う事がです、金光様のご信心の、いわゆる「おかげ」なんです。今日は「わが教えの昔に帰れ」と。それは大昔の言うなら、太古時代と言いますか。人間が裸同様で生活をしておったと。原始的な生活、そういう生活に入れと言うのじゃないのですよね。先程申しますように暑い時には、着物一枚取っていくだけではなくて、そこに涼をとっていくと言う事が自然なんです。
 寒い時にはね、一枚重ねて着らして頂く。そこに寒さを感じんで済む生き方こそが自然なんです。そういう生活にならせて頂くことがです、わが教えの昔に、言わば帰らして頂くこと。「何事にも方位を忌まず」と言う事はね、「先生はああ仰るけれども、こう」といった理屈を言うなと言う事だとね。理屈を言うなと。だから「これはおかげですよ」と言われたら「ああそうですか」と言うて、それを真から出る有り難いじゃなくても、有り難いとお礼を申し上げていく生き方なんです。
 そうして行く内に、成程おかげであったことが分かってくるのです。昔のご信者さん方は、それを言っておられますね。先生が赤い物を白と言うても、「ああ白ですか」と言うて頂きよるとそれが白になる、と仰る。「何です、これはあなた赤ですよ」ちゅうて、跳ね返すようなことを言うなっちいう。だからもうほんとに、まあ言うならば、馬鹿んごたる信心ですね、金光様のご信心とは。けれどもです、それこそ大自然の法則にピッタリ即応した生き方をそこから身に付けて行く事が出来るのです。
 いわゆる、大自然と共にと言う事は、自然の働きと共にと言う事は、いわゆる「神様と共に」と言う事である。そこに私その神様との交流がいつも、図ることができるおかげ。「理屈を言うな、素直になれ」と言うただけではです、なかなか、やっぱ理屈のひとつも言うてみたくなるのですけれどもね。御教えを頂き例えば、今日の御理解を頂いておりますとです、そうならなければ本当。本当の金光様のご信心振りにもならないし、金光様が言うてござる約束してござる。
 いわゆる「目出度めでたの若松様よ枝も栄える葉も茂る」と言う様なおかげになってこない。子の代よりも孫の代と言う様なおかげが自然に開けてくるというおかげね。だから現在の難儀からいっぺんに楽な生活に入ろう、と言う様な願いではなくて、自然におかげを頂いていく。それを私は例えば食物なら食、今例えば難儀という腹を痛んでおるのであるから。今こそなら鯛の刺し身が食べたいとか、すき焼き食べたいとか思わずにね。腹の痛いとに一番いいのは。
 「お粥さんに梅干しが一番良い」と悟らせてもろうて、そういう生活になっていく。腹の良くなってくるにしたがってね、また骨のあるものも食べてよかろう。味のある物もまた、頂けれるようになってくる。そういう生き方をいよいよ身に付けて行かなければ、金光様のご信心ぶりというものが生活に現されない。また金光様のご信心ぶりによるところの生活。また、それによるところのおかげというものが、何かしらこう取って付けたようなおかげになってくる。これは不自然である。
 どこまでもどこまでも金光様のご信心は、自然に繁盛してくる。自然におかげを頂いて行く道。そういう道を体得していかなきゃいけない。それを例えば「素直になれ」と。もうなるほど、金光様のご信心はですね、「この方の道は」ね「喜びで開けたみちじゃから喜びでは苦労はさせん」という、この一つを覚えて行きゃいい、と言う事です。一切がそこにしぼられて行きゃいい、というほどしの素晴らしい。
 一つの内容を持ったのが、「喜びでは苦労はさせん」と仰る言葉だと、こう思います。私共が不自然に願い、不自然な生き方をして、そして例えば、おかげを頂いていくということは、なるほどおかげを頂いても、おかげを頂いたらもうその次には、また頂かんならんこと、になってきておる。「自然に開けてくる道」と言う事にいつまで経っても出られない。そういうおかげを身に付けて行きたいと思うですね。
   どうぞ。